「努力」の話

更新日:9月7日

「才能」と「努力」。

このトピックはよくよくあることです。

相反するように見えて、

実はお互いを補完しあう関係です。

努力続けることも「ある種の才能」と言っています。

私もそう思います。


さて、日本人は努力を美徳としています。

いえ、世界の人々もそう思っていますが、

「真面目」な日本人は

とくに、ちょっと古風な思考の持ち主は、

テストで点数を出すこと、公式を覚える事、

ググれば分かりそうなことを暗記することのための努力を

努力と認定しているように思います。

まるで、貯金箱に貯金をする、

脳という知識ボックスに知識という断片を詰め込む作業を

「努力」としてとらえているように見えます。


しかし、今の時代、

人がスマホというミニパソコンを持ち歩き、

ググる、もしくはインスタやツイッターで調べものする時代です。

そんな中にあって、

「良い国作ろう、鎌倉幕府」

「鎌倉幕府の成立は1192年」と言っても、

無駄な努力なのです。

ちなみに、これは、今の教科書では1185年だと聞いています。

知識はどんどん上書きされていくのです。


さて、そんな中にあって、

未確定要素が多くある、医学やアートの世界において、

単純にその時代、またその個人の知りうる「正解」を

「暗記」することに意味はあるでしょうか?

また、その方法を「努力」と呼称していいのでしょうか?

そんなことをよく思います。

特に、私が以下の条件を持つ人とワークするときに、

強く思います。

「呼吸」にこだわる人、

複雑な現象に対して、単純な答えを執拗に求める人、

付いている先生の助言が理解できない人で、

そのことを先生には一切伝えず、

私に問題解決を求める人です。